2016.01.23
延岡市 徐福さん振興協議会が中心となって開催する「徐福さん健康長寿ウオーキング大会」の第1回実行委員会が開催されました。
私にもなにかご協力できるのだはと思い末席に加えていただきました。
平成28年2月27日 朝9時30分より 今山八幡宮の鳥居広場よりスタートして 延岡市花物語の会場である 河川敷まで 約5kmほどのウオーキングです。。
当日、参加賞としてサンプルの配布と試飲をさせていただきます。。
まだ、寒い日続きますが今年は、日中は暖かい日がおおいのでウオーキングすると気持ちいいと思います。冬の間、家にこもりっきりでちょっとメタボ気味の方 血圧や血糖値の気になる方暖かくしてこたつを飛び出しましょう‼
是非是非、ご参加ください。
2016.01.14
2015.12.26
日本各地に伝わる徐福伝説
今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。
徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。
始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って船出することを許可しました。
若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。
もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。
中国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。
日本各地に徐福伝説は存在します。実際はどこにたどり着き,どこに居住し,どこに行ったかはわかりません。もちろん,徐福という人物の存在を証明する物は何もありません。しかし,徐福の伝説地はあまりに多いのです。
数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県など。
名:徐福(じょふく,別名 徐市:じょふつ)
出身地:斉の国 琅邪 (現在は山東省)江蘇省連雲港市かん楡(ゆい)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見(古来は琅邪郡であったところ)
職業:方士(呪術師,祈祷師,薬剤師,占星術・天文学に秀でた学者)
徐福像(和歌山県新宮市 徐福公園)
BC.278 徐福誕生
BC.259 始皇帝誕生
BC.221 始皇帝即位
斉の国滅亡
始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ,徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。
BC.219 徐福 出航
BC.210 始皇帝崩御
BC.208 徐福死去
(富士古文書により推測
参考文献・資料より)
参照)http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
2015.11.28
弊社の販売いたします。
徐福草(ヒュウガトウキ)は広く日本山人参として知られています。
これは、朝鮮の人参(朝鮮人参)に匹敵するほどの効能があるとされ
その名がつけられました。
それを、徐福草となぜ命名したのか?
それは、遠く中国が秦の時代
時の皇帝 始皇帝は「不老不死の妙薬」を求め
国一番の薬師「徐福導師」に散策を命じました。
との時の航海が今も 日本各地や台湾などに伝説として伝えられており
「富士山」の命名者は「徐福導師」だとされています。
その徐福が、宮崎県の日向の国に寄港し 散策したのは紛れもなくヒュウガトウキだったのでしょう。
秦の時代にもガンや高血圧・高血糖といった メタボリックな病気は存在したのかもしれませんね。。